若狭武田氏鎌倉時代に石和五郎信光が若狭国大飯郡に源力木山城を築く。若狭武田氏は安芸武田氏4代武田信繁の長男である武田信栄が、室町幕府6代将軍足利義教の命を受けて1440年(永享12年)に若狭守護職・一色義貫を誅殺した功績により若狭守護職を任命されたことによって始まる。信栄は、一国守護となったのを機会に安芸から若狭に本拠地を移した。信栄のころは、まだ遠敷郡小浜(現・小浜市)ではなく、大飯郡高浜(現・高浜町)に武田氏の館があったといわれている。信栄は1441年(永享13年)28歳の若さで病死するが後を弟の武田信賢が継ぎ、安芸国と平行して若狭国経営に乗り出した。信賢以後、武田家は分裂し、安芸武田氏は信繁四男・武田元綱が継ぎ、若狭武田氏は信繁三男・武田国信が継いだ。 武田信賢は若狭国内の一色氏残党や一揆を次々に鎮圧して国内を固める一方、応仁の乱では東軍に属して丹後国に侵攻するなど活躍し、室町幕府からの信頼も厚く、また文化人とも積極的に交流している。3代国信以降は若狭国、丹後国の両国を中心に領国経営を行う一方で幕府の出兵要請に応えて頻繁に京へ出兵するが、在京期間のほうが長くなったこともあり、周辺諸国からの圧力、有力国人の離反などが相次いで勢力を弱め、8代武田義統の時代には家督争いも加わりさらに弱体化が進行する。1566年(永禄9年)8月には姉婿の義統を頼って入国した足利義昭を庇護するが、家中の混乱を見かねた義昭一行は早々に越前朝倉氏を頼って出国し、若狭武田氏も2年後の1568年(永禄11年)8月に、越前朝倉氏の若狭進攻によって領国を失う。 最後の当主9代武田元明は、朝倉氏によって一乗谷城に軟禁されていたが、1573年(天正元年)に織田信長によって朝倉氏が滅亡すると、新たに若狭国を与えられた丹羽長秀の配下となって若狭国に帰国した。1582年(天正10年)の本能寺の変では旧領回復を狙って明智光秀に加担するも敗北、丹羽長秀によって自害を命じられて、若狭武田氏は滅亡した。 武田元光武田 元光(たけだ もとみつ 明応3年(1494年) − 天文20年7月10日(1551年8月11日))は戦国時代の人物。若狭武田氏の第6代当主。第5代武田元信の次男。潤甫周玉、武田信孝の兄(潤甫周玉の弟とも)。武田信豊、武田信実、内藤政信、山県盛信の父。幼名、彦次郎。官位は伊豆守、大膳大夫。法名は発心寺殿天源宗勝大居士。 1519年11月に父の元信が出家したため、家督を継承して若狭国守護となる。領国支配を固めるため若狭へ下向し、後瀬山城を本拠とした。代々の宿敵である丹後一色氏との抗争([1])に加え、元光の時代においては細川氏の内紛に積極的に介入し、管領細川高国を支持し細川澄元を退け、足利義晴の将軍擁立に尽力した。丹波の波多野稙通と柳本賢治が高国から離反し、それに呼応して堺公方を擁立する細川晴元(澄元の子)が挙兵すると、高国を援助するため上洛し、晴元達と戦ったが、桂川原の戦いにおいて敗れ、将軍義晴を擁して近江に逃亡した。その後も高国派として晴元派の諸将と争う。1530年に出家し、1539年には病を発し、まもなく家督を子の信豊に譲り隠居した。高国の没落後も将軍義晴からの信任は厚かったが、度重なる軍事活動([2])は領国を疲弊させ、弟の武田信孝や被官である粟屋元隆や逸見氏が反乱を起こす([3])など、領国支配は安定しなかった。 和歌にも優れた教養人であり、三条西実隆との交流の記録が残る([4])。 墓所は現在の福井県小浜市の発心寺。なお、発心寺の所蔵する、元光肖像三点(絹本著色武田元光像[5]、犬追物検見之像(紙本著色武田元光像)▽木造武田元光像[6])が、平成18年4月11日付けで、福井県指定文化財に指定された。 このうち木造は江戸期の作、紙本著色は没後23年の後に製作されたものであるが、絹本著色は没年に製作されたものであり、若狭武田氏当主の、生前の姿を最もよく残している可能性が高い。 武田信豊 (若狭武田氏)武田 信豊(たけだ のぶとよ、1514年10月22日(永正11年10月5日) − ?)は、若狭武田氏の第7代当主。武田元光の子。子に武田義統・信方がいる。 永正11年10月5日生まれ。幼名は彦二郎。妻は六角定頼の娘である。1539年に父・元光から家督を譲られた。1542年、細川晴元に与して三好長慶を攻めたが、逆に敗れて有力武将の多くを失うなど、武将としては有能であるとは言えなかった。1554年、細川晴元の要請を受けて丹波国方面に出兵し、松永長頼(三好長慶の家臣で、松永久秀の弟)と戦った。 しかし文化的には優れた教養人で、故実の筆写や連歌の才能では目を見張るものがある。 1556年頃から、家督をめぐって武田氏内部で争いが起こった。この争いの最中、信豊の弟で補佐役でもあった武田信高が死去したこともあり、この争いはさらに激化し、しまいには信豊は嫡男・義統と家督をめぐって争った末に敗れ、一時は近江国に逃亡した。1561年、ようやく父子の間で和議が成立し、信豊は帰国を果たした。この頃、信豊は出家して紹真と号した。 1567年には息子の義統が自身に先立って病死。信豊は、没年が詳しく分かっていないが、少なくとも1570年頃までは生存していたらしく、晩年は連歌の会を開いて悠々自適の生活をしていたという。法名は霊雲寺殿大仙紹其。 武田義統武田 義統(たけだ よしずみ)は、若狭の守護大名・戦国大名。若狭武田氏の当主。初名は義元。 大永6年(1526年)、若狭武田氏の当主・武田信豊の長男として生まれる。天文17年(1548年)、前将軍・足利義晴の娘で現将軍・足利義輝の妹を正室に迎えた。 弘治2年(1556年)、弟の武田信方を擁立する重臣・粟屋勝久と争い、勝久を追放して勝利した。永禄元年(1558年)には父・信豊を近江に追放して実質的に家督を継いだ。その後も父との対立は絶えず、また、粟屋勝久など被官達の反乱も続き、永禄4年(1561年)には家臣・逸見昌経によって反乱を起こされ、昌経が丹波の松永長頼の支援を受けていたこともあり独力で鎮圧できなかった義統は越前の朝倉義景の援助を受けて何とか鎮圧している。しかしこのため、若狭に朝倉氏の影響力が強まる一因を成した。 永禄8年(1565年)に義兄・足利義輝が松永久秀らに暗殺され(永禄の変)、その義輝の弟(義統の義兄)である足利義秋(足利義昭)が自身の将軍就任への協力を求めて永禄9年(1566年)に若狭を訪れた。若狭武田氏は偏諱や婚姻などを通じて交流するなど、足利将軍家から格別な信頼を受けていたが、義統はこの頃には息子の武田元明とも家督をめぐって争っており、内乱のために支援できなかった。 永禄10年(1567年)4月8日に死去。享年42。ただし異説として11月9日に死去したとも伝えられる。更に『高野山過去帳』によれば、天正8年(1580年)4月8日を没日とする記述がある。 家督は義統の子・元明が継いだが、粟屋氏などの反乱はおさまることもなく、若狭武田氏の統治は一向に安定しなかった。義統の死の翌年には朝倉義景が若狭に侵攻して元明は朝倉氏の保護下に置かれ、実質的に若狭武田氏は崩壊した。 武田元明武田 元明(たけだ もとあき)は、若狭武田氏の最後の当主。 天文21年(1552年)、若狭武田氏の当主・武田義統の子として生まれる。永禄年間に父と家督をめぐって争ったが、永禄10年(1567年)に父が死去したため、家督を継いで当主となった。しかし若年であり、逸見氏などの有力家臣の謀反により、すでに武田氏は崩壊寸前にあったため、もはや武田氏の家督は名目同然のものであったと言われている。 永禄11年(1568年)、越前の戦国大名・朝倉義景の侵攻に遭って元明は身柄を拘束され、越前の一乗谷朝倉館に軟禁される事となった。これにより若狭は朝倉氏の支配下に入った。武田氏の旧臣は、表向き朝倉氏に臣従しながら武田家再興の機会を待ったが、それとは別に、早くに武田氏に謀反し独立していた逸見氏などは織田氏の勢力が近江の湖西地域におよぶと織田信長に通じ、のちに若狭衆とよばれることとなる家臣団として織田氏に仕えた。 織田信長の朝倉攻めに協力した武田氏の重臣・粟屋氏により元明は救出されたが、朝倉氏滅亡後、若狭の支配は織田信長の重臣・丹羽長秀に任されたため、武田氏は遠敷郡の一部(3000石)を領するだけとなった。天正8年(1580年)には信長の命令で神宮寺桜本坊に蟄居にさせられた。 天正10年(1582年)6月の本能寺の変の際、この期に若狭守護としての勢力の回復を夢みた元明は、明智光秀と通じて長秀の居城・佐和山城を攻略する。しかし山崎の戦いで光秀が敗死すると、元明は長秀によって近江海津に召還され、7月19日に自害した(謀殺されたともいわれる)。享年31。 これにより若狭武田氏は滅亡した。 |